舞台紹介

大黒町舞台

大黒町舞台

二層構成、起破風(むくりはふ)の切妻屋根。転回が容易な三輪形式で、全体を軽くするため、寄木細工、柱の芯が虚ろになっています。一階の周囲には小さな庇(ひさし)をつけた出窓があります。この出窓や、庇の下には、立川流二代目和四郎富昌作の多くの彫刻が施されています。一部、立川三代目頃の7 賢人の彫刻もあります。飾られている人形は、大黒町の町名に因んで大国主命です。

明治21 年松本市本町二丁目から、当時の時価500 円で譲り受けたものです。人夫の日当が10 銭の時代です。大変高価なものでした。

昭和58 年に大町市有形文化財に、昭和62 年に「県宝」に指定されています。舞台の創設は、文政9 年(1826) となっています。

堀六日町舞台

堀六日町舞台

江戸前期の創建ではないかと言われています。嘉永元年(1848)に大修理をしたことが、天井裏に残されています。からくり狐を収めた箱には、嘉永7 年(1852) の墨書きもあり、からくり狐が既にあったことが分かります。明治6 年(1872)に火災の被害を受けました。その修復の時に欄間彫刻や装飾を一新し現在のものが出来たと伝えられています。

昭和56 年、念願の大修理をしました。信太妻(しのだづま)伝説の信太の森の葛の葉狐が、安部保名と結婚し一子を授かった歌舞伎の題材からとった狩り衣装の操り人形の復元と、欄間下に舞台囃子に合わせて愛嬌があって、軽妙に踊る信太の森の葛の葉狐も修復されました。巡行道中の祭り囃子は、この踊る狐に合うように、軽快に高い調子で囃します。

八日町舞台

八日町舞台

文久3 年(1862)の建造とされています。

特徴は、8 人の代わりが出来る車と言う意味の大八車が基本となっています。朱を基調とした桃山風の屋根と調和していて、転換も容易で軽快・精悍・機敏に映ります。二階の幔幕(まんまく)は、白の裏を出して、表の赤・朱塗りとのバランスを考えて定着したものと思われます。

明治23 年の大火で町が殆ど焼失した災害時にも、舞台は解体して、分散保管によって救われています。

昔は、楠親子の湊川の別れの人形飾りがあったとの言い伝えがあります。

昭和58 年に、大幅に解体修理、塗装をしました。平成13 年にも一部修理と塗装を実施しています。


九日町舞台

九日町舞台

創建は定かでありませんが、江戸時代後期のころと伝えられています。明治以降幾度となく改修を重ねてきたようです。老朽化が激しくなって、昭和56 年に車体上部と飾り人形の修理を、昭和58 年に柱龍を取り付け、昭和64 年に車輪の取替えをいたしました。

人形飾りは、娘道成寺の「安珍」「清姫」です。江戸中期以降市中に発達した庶民文化の象徴的な歌舞伎の一場面を奉納・披露した氏子町民の心意気が汲み取れます。

舞台後ろの天井から箱に入った古いお面が吊るされています。能を伝える家筋の方からの寄進で、「鬼女の面」といわれ、取り出せば忽ちに大雨が降ると伝えられ、今も恐れられて誰も開けた者がいないとのことです。

高見町舞台

高見町舞台

柱に上り龍、下り龍の彫刻が、ここの舞台の特徴です。天保年間(1830 ~1843)に再建されたこと、その時の大工は池田町の某との記載が残っています。町の半分が焼失した火災で、二階の欄間二枚と車四個を焼いてしまい、何年か祭りに参加できない悲運もありました。

二階の飾りは、高見火荒神の御神体の獅子頭で、古びた布はその幌です。彫刻は荒彫りで極めて雄大の評があります。仁科盛遠が将兵の慰安や士気を鼓舞するためと、戦場での敵へ威しとして用いたとの口伝や、獅子宮の線で火災の延焼が止まったとか、何か事変が起こる前兆に口をパクパクして知らせてくれるとか、幌を新調したら翌日それがボロボロになっていたので以降新調しないなど神意の顕著な伝承が残っています。

五日町舞台

五日町舞台

現存する大町の舞台の中で一番古いといわれています。

舟の山車(だし)であったものを改造したもので、舞台正面の屋根裏の所に、直径30 センチ位の帆柱の穴があります。また、車の軸受けの桁が、三重になって見えるのも、舟の山車の特徴を示しているといえます。

昔は解体分解して、分散して何軒かの家の土蔵に保管してきました。火災などの災害から舞台を守ること、都度修理保全をするなど、氏子の知恵でした。彫刻が施された欄間を収納する箱に、「嘉永元年戉申(かのえさる)五月吉日五日町」の墨書きがあります。1848 年のことです。

昭和50 年の大改修には、舟の山車であったことを末永く後世に伝えるため、その特徴の保存に意を用いました。